「ディアブロが見せてくれたネットゲームの地平」



 突然だが、私(曽根)はゲーム評論家でもある。

 今回、なにげなく、まじんHPに投稿した「正常快楽殺人」がらみで、現

在の「ネットゲーム人口」を考えれば、かなり大規模な論争がおきた。

 その論争の中心人物が私(曽根)という理由もあるが、あの一連のログは、

「日本ネットゲーム草創期の雰囲気」を伝えるものとして、将来、歴史的な

価値をもつだろう。手があき次第、編集と、評論をしたためる。

 そのための準備コーナーでもある。

 また、同じくゲーム評論家の矢本広も、Diablo論からはじまり、ネッ

トゲーム論、ゲーム文化論、さらには「人間にとってゲームとはなんなのか」

そもそも「テレビゲームとは何なのか?」という真の意味での「ゲーム評論」

を準備している。

 そのさわりを口頭で聞いたが、無批判にホイジンガやカイヨワをテレビゲー

ム論にあてはめるマヌケな論説、好きなゲームをグルメする「レビュー」す

る「レビュアー」および「レビュー紙」、業界の論理でチョウチン記事を書

くアナリスト、たんなるゲーム界のアイドルの「ゲームライター」などなど

の駄論とは、まるで次元がちがうものであることは、現時点でも保証できる。

 この「Tri−6のPK論争」を契機として、以後のゲームを評価する姿

勢や、ネットゲームのマナーといった枝葉の部分でなく、ゲームシーンその

ものが激変するだろう。



 一例をあげる。今回、曽根は「PK日記」をしたためているが、それはR

PGのリプレイとしては、きわめて貴重なはずだ。

 なぜなら「Diablo」登場以前は、当然テーブルトークRPGのリプ

レイ(か、それを意識した作家の空想)しか行えなかった。つまり「悪役」、

ゲーム中に友達のキャラを殺したり、それどころかゲームのたびに、本来の

ゲームマスターが用意したシナリオを無視して、いつでも参加メンバーを襲

うような「バカ野郎」が現れたら、誰にも相手にされず「テーブルトーク界」

から追い出された。

 ゆえに、既存のファンタジー小説などは勧善懲悪が基本だし、「悪役」は、

マスターが用意したNPCくらいしか存在できなかった。ファンタジー小説

が、どれもこれも似たり寄ったりなのは、その起源とシステムから、当然の

結果であるのだ。

 ただのイタズラチーターでなく、「G」以前に「デキレースでない悪役」

が地球に存在したのか(しかも意識的な演技として)? いたとしたら、そ

れが、たんなる奇矯なプレイや、ウケねらいのイタズラでなく、どれだけリ

プレイというかたちでフィードバックし、どれだけのタイムスパンの演劇を

他者と共有できたのか? さらには、そのストーリーが気に入れば、(運が

良ければ)自分もストーリー上のキャラとして参加できてしまうのだ。もう

少し考えて発言されてもよかった。

 「Diablo」以前のテーブルトークRPGでは、「本当にプレーヤー

の自由意志が存在できたのか?」くらいは語られていい。

(ちなみに「Diablo」はゲームメーカーの意志すらとびこえ、公式シ

ステムルールすらチートという手段でブチこわせてしまう「自由意志みとめ

すぎ」ゲームなので(笑)、私自身としては残念に思っている)

 そして、演劇や映画は、シナリオライターや監督の台本にそわなくては大

根役者であるし、テーブルトークRPGならば、マスターなど「テーブルトー

クコミューン」の支配なり「場の雰囲気の支配」を越えて、自分勝手な行動

はゆるされない。

 いわんや過去のRPGにおいては、つまらないゲーム制作者の、つまらな

いシナリオから、逃れることすらできない。ゲームは、同時に、制作者の掌

で踊ることしかできない存在でもある。

 ならば、ネットゲームは、演劇も映画もテーブルトークRPGもシングル

PRGもたどりつけなかった場所に来たのではないか? 「役者おのおのが

独自のシナリオを持って相互作用を産む」「Diablo」という「舞台装

置(=システム)」とはなんだったのか? このような視点すら欠如してい

る。



 そもそも「現実」と「ファンタジー」の差というのは、「ファンタジー」

側は「ルールにおいては平等」つまり、究極的には安定したシステム(秩序)

に守られた社会であり、「現実」とは、そもそも安定したシステムがなく、

そのときどきの歴史なり運命なり権力なりに不条理に決定される、ヒデー世

界(カオス)ということにある。

 逆ではない。

 この地獄のような天国である「現実」に生活する者にとって、(たとえ魔

法だの、神の真理だのを持ち出さざるを得なくとも)、混沌を秩序づける意

志としての「物語:フィクション」は、存在しなくてはならない。

 説得力ある「物語:ストーリー展開」が加速し、「現実:その作品の世界

観や設定」を追い抜いた瞬間、ファンタジーとしての感動があり、「物語」

がリアルな「現実」にブチ壊されたカオスの強さが「リアルな小説」である。

構造的に「リアルなファンタジー」や「夢のようなノンフィクション」など、

逆であったりミックスされている場合もあるが、基本的に、この「物語」と

「現実」のつなひき、緊張感、どんでんがえしのトリックが、そのまま作品

の評価に直結すると言っても過言ではない。

 では、この「Diablo」という「装置(=システム)」で、「物語」

を匿名のネット社会の「謎の共演者」と共に、アドリブでくりひろげられる

可能性とはなんだったのか?

 残念ながら、今回「Diablo」は致命的なミスをおかし、本質を見え

にくくした。

 劇場破壊者(チーター)と、仮想世界での敵(PK)が、同列になってし

まうほどの「物語」オンリー、チーターの「現実」支配という、弱い「装置」

を作ってしまったブリザードの失点は、かなり大きい。

 おそらく、次のエポックメーキングとなるゲームは、「物語」だけでなく、

「現実」のほうも(正しいチーター・改造モジュールクリエーターによって)

自由にできる、ネットPRGのオペレーティングシステム、つまり「『RP

Gツクール』のネットワーク版」という形で実現されるだろう。

 Diablo2が、たんなる焼き直しでなく、Quakeのような「ゲー

ムOS」として再び衝撃を与えてくれることを祈る。



 さて、このような本質的考察もなく、海外のホームページを読んでいるく

らいで、わけしり顔をしていた馬鹿ゲーマーどもよ、全員、死ね。無知無教

養な人間が、文化活動であるゲームについて軽々しく語るな。

 このあたりの「ゲーム論」も「RPGの歴史」も、まるで考慮せず、ただ

「マナーどうの」が「PKに殺されたフザケンな」などの意見を出すのは、

ゲーム大国である日本の恥なので、やめにしてもらいたい。いくら無能でも

アホでも自己表現できるインターネットだからって、やっていいことと悪い

ことがある。アンモラルなポルノのほうが、バカの跳梁よりまだましだ。

 「マナー」はシステムによって変化する

 もしかしたら「DIABLOにおけるPKはマナー違反だ」なんて感情は、

「囲碁プレイヤーに、オセロのマナー強要して、碁石でオセロをやらせる」

くらいナンセンスと皆に思われる時代がくるかもしれないぜ。

 あなたはゲーム史の転換期にたちあっている。

 そして「G」が物語の上で死亡し、Myファンタジーがついえた時、私は

力石トオルの葬式を出した寺山修司のごとく、無味乾燥なデジタルの世界か

ら「物語」を取り戻す「現実」のネバーエンディングストーリー大作戦を慣

行する。

 私は、フィクションから意識的に構築されたファンタジー(=現実)に生

きる人間であるからだ。おめでとう、チルドレン。



 曽根清治